ノヴォシャフチンスク (Novoshakhtinsk)
人口は111,075人(2010年全ロシア国勢調査. 2002年国勢調査では101.131人 、1989年国勢調査では107,772人 ).
ノヴォシャフチンスクはドネツ盆地(ドンバス)の他の都市と同様、瀝青炭の採掘に伴って生まれた鉱山町である. マールイ・ネスベタイ川の上流には19世紀半ばから20世紀初頭にかけて小さな鉱山や集落がいくつかできていた. 1913年にロストフの産業家であるニコライ・パラモノフが大規模な炭鉱を開発し、近くに炭鉱労働者の集落が開かれた. 1917年の十月革命以後、炭鉱は国有化され、炭鉱労働者集落は共産主義インターナショナルにちなんでコミンテルン(Коминте́рн)と改名された.
1939年、コミンテルン町は他の労働者集落と併合して「新しい鉱山の町」という意味のノヴォシャフチンスクという名になり、市に昇格した. 以後、ソビエト連邦の崩壊に至るまで、ノヴォシャフチンスクは炭鉱とともに歩んできた. 第二次世界大戦時、1942年7月23日から1943年2月13日まで、ノヴォシャフチンスクはドイツ軍に占領された. ドイツ軍が来るまでの間に炭鉱には水が流し込まれ、住民の一部は避難した. ドイツ軍は捕虜収容所をノヴォシャフチンスクに作り捕虜に重労働をさせたが、赤軍に解放された後はドイツ軍捕虜の収容所が作られ、ドイツ人捕虜は1950年代まで炭鉱作業に従事させられた. 戦争直後は大部分の建物が破壊され炭鉱も水没したままというありさまだったが、再建と炭鉱の拡大が進み、1959年には人口は十万人を超えた.
2003年、ザパドナヤ炭鉱で大事故が起こり、46人が取り残された炭鉱に注水が行われた. 6日後に12人の炭鉱夫が奇跡的に救出されたが、この事故による打撃は大きく、ロシアで進んでいた石炭産業の再編も相まって、同年ノヴォシャフチンスクの炭鉱はすべて閉鎖されることになった.